すごく大切な人が死んだ

久しぶりのブログになってしまった。

ギガデクです。
最近はひとりで映画を観たり、音楽を聴いたりクラブに行ったりする事にも慣れてきました。

この6ヶ月間いろいろなことがあった。
コミケでローアングラーが話題になったり、好きなアイドルが朝のテレビに出るようになったりもした。
結局、普通のことが一番幸せだしハードコアだ。


あの人は少し変わった人だった。好きな俳優はローワンアトキンソンで、いつもお子様ランチを大人は食べれない事に腹を立てたりしていた。
僕の4歳年下だったけど、いろんなことを僕よりたくさん知っていて、困ったり悩んだりしたことがあったらいつもその人に相談していた。
ある時僕が音楽についてひどく悩んでた時も、
「1曲目なんてせいぜい長くて5分程度だし、人生のうちの5分程度なんだから好き勝手やって良いんだよ」と言われて、すごく励まされたことがあった。
一緒にご飯を食べた時、「たくあんは大好きだけど大根は無理なんだよね」と言って僕のお皿に大根を全部乗せたりしてニヤニヤしてたのを今でも覚えてる。

そんな彼が去年の10月に突然入院した。
症状や病名はよくわからなかったが、持病だと言っていた。
立川の少し離れたところにある病院に初めてお見舞いに行った時はかなり元気な様子で、見た目も少し痩せたかな?くらいでいつも通りだった。

それから1ヶ月くらいして彼から連絡が来なくなり、代わりに彼の親から連絡が来るようになった。
連絡の内容は「よくあなたの話をしている」とか、「はやくあなたと遊びたいと言っている」とか、少し嬉しいものだった。

3ヶ月ぶりにお見舞いに行った僕はほとんど恐怖に近い感情を彼に抱いてしまった。

手足が壊死して無くなってしまっていた。

よく遊んでいた頃の細くて骨ばった腕があったはずの場所には点滴かなんかの管がたくさん張り巡らされていて、ガーゼでぐるぐる巻きにされていた。
それでも彼は普段と変わらない様子でおかしなことを言って周りを和ませようとしていた。本来存在してたはずの体の一部が無くなってしまっているのにだ。
とても物悲しい気持ちになってしまって僕は全然笑えなかった。とても申し訳ないけど。

帰り道、彼のお母さんに「もうしばらくお見舞いに行けないかもしれない」と連絡をした。
するとすぐに「来てくれてとても喜んでいた」と返事が返ってきた。僕にはいつも通りの彼の態度にしか見えなかったけど、多分僕が来るから頑張ってくれていたのだろう。

そしてお見舞いに行かなくなって3月10日。
彼が他界してしまった。
予想はしていたけど、やっぱり虚しさが溢れた。
一番楽しい遊び相手がいなくなってしまった実感はまだ全然わかなかった。

次の日お葬式に行って、親族の人と話したりしたかったけどそんなコミュニケーション能力は僕には無いので淡々とお葬式は流れていった。

そして火葬の時僕はびっくりした。
彼の手足が無くなってしまっていたのは知っていたが、顔や胴体など全ての骨がどこにも見当たらなかった。
そう、彼は虚構だったのだ。実在しない人物だったのだ。


僕が大嫌いなネットでたまに見かける「○○が死んだ」とか「○○が▽▽だった」とかそういう記事を真似て、結局みんな人が死ねば感動するんでしょ?ってやりたいが為に作られた嘘だったのだ。

そういう記事には大抵決まったフォーマットがある。
大まかな流れは、

  1. 現在
  2. 思い出
  3. 闘病
  4. 葬式
  5. そして今

みたいな感じで、だいたい文中に故人の面白エピソードを挟んである。
ほとんどの場合がこの流れで進んでいる。
そして大体故人との思い出や死を詩的に語っている。

人の死はInstagramのフィルターじゃない。あなたが素晴らしい人間だってアピールする材料に人の命を使うのはやめろ。

僕は死なないけど、もし死んだら絶対にこういう記事を書くな。約束して。